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​オーナーシェフ

​Masami Sato

はっきり言ってしまえば、

料理に対する能書きなんてどうでもいい

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敢えて、当店のこだわりなんて言う話はここではしません。​私は、ただスペイン料理という仕事(フィルター)を通して、波瀾万丈の人生を乗り越えてきただけです。

​料理人も長年経験を重ねてくると持論を語るようになります。それは致し方ない事ですが、まあ、料理人だけに限った話しでも無い。どんな仕事をしていても追求していくことや持論はあるし、良く聞く地産地消も料理人なら当たり前なので敢えて声高々に言うことでも無い。もはやそんな事は取るに足りない話で人生の答えはそこにはない。単に、自分の人生に意味付けをしているに過ぎないと思うんです。

結局のところ人それぞれ違った手段(仕事)を用いて人に接しながら修行をしていくのが人生だと思う。私は、日々料理と人を介して料理以外のことを多く学んでいる。勿論、失敗や嫌な思いをすることもある。何に携わっていても間にいるのは人だから同じこと、

ただ、料理人になって30数年。今になって心底言えることは、自分が好きなことを一生の仕事にしたいと思えたこと。でもね、正直好きなんだけど何度もやめたいと思ったこともある。大いに楽しんだり、感謝したり、躓いたり、悩んだり実に、意図しない事も生きていれば沢山起こる。何が起こるかわからない人生だけど、人生は修行だと思えば乗り越えて行くしかない。

ただ、その道程で悩んだり迷ったりして決断しなければならない時は、俺の生き方として正しい選択か正しくない選択かで選ぶ。人生を良い方向に変えてくれた我がスペインのマエストロ。

私は、これからもあなたから授かった心底身震いがする程感じた大切な事をスペイン料理というフィルターを通して、一生学び続けます。

そう、自分の前に道があるわけではない。いつか振り返った時に自分しか歩けなかった道が刻まれているだけそして、多くの出会いがあることを願っています。​たった一度の人生を料理を通して笑顔と感謝に包まれますように。​ここまで、お読み頂いたあなたに感謝をしつつ

マドリード
マドリード

Carrera profesional

◉1989年(平成元年)静岡県浜松市にあるホテルのベーカリー部門(製パンと西洋菓子)で4年間学ぶ。

 

◉愛知県のイタリアンレストラン(オープンからクローズまで行列が途切れない店)でイタリア料理とピッツァ及び店長職を2年間学ぶ。

 

◉1994年 夢を掴み取り念願だったスペイン行きを決める。単身マドリッドに渡り、二つ星レストラン 「restaurante cabo mayor 」にてJavier sierra氏、Miguel ximénez氏、Pedro larumbe氏に師事。スペイン料理のメソッドを学ぶ。

我がマエストロ Javier氏の側でセカンドシェフとして3年間学びつつもスペイン人にスペイン料理を教えられる立場まで短期間でのしあがる。また、三つ星レストランZalacainを含め、バカンスを利用してスペイン国内・フランス・スイスでも研鑽を重ねる。

見ず知らずの外国人である私が、スペインで働きスペイン人以上に仕事で一目置かれるようになる為に行動した3年間は日本で過ごす12年分に値する働き方と密度だったと感じる。少なくとも自分自身はそうしてきた自負がある。今になってもしみじみそう思うのである。現地の人の2倍、3倍の働きでは追いつけないし追い越せない。4倍、5倍のスピードで働き、頭の中もフル回転で思考する覚悟で行かないと直ぐに潰される。因みに3年間はほぼ毎日睡眠時間は長くて2時間。3日くらい寝ないで働くのは当たり前でした。でも、楽し過ぎて辛いなんて思った事は1ミリもありませんでした。マジで。人間覚悟を決めれば想像もしないような壁を何度でもぶち壊せる。

 

◉1998年 絶望の時。人生には思いもよらないことが起きます。自分ではどうする事もできない事件が起きて、夢半ばのまま意気消沈。その事件で散々悩んで苦しんだ挙句仕方なく帰国を決意する。

 

◉1998年 フランス料理の必要性を感じ、静岡県浜松市のフレンチレストランでフレンチの真髄を学び、サービス人としての知識も多く学び得る。

 

◉自身が30歳になった事と母が車で大事故を起こしたことを境に、自由奔放に生きてきた今までを振り返り長野県にある実家に帰る事を決意。

 

◉長野県軽井沢町にある、ホテルでシェフとして10年間在籍。

 

◉2012年 春 ようやく復活して、新たなスタートを切る為に、スペイン料理店のオーナーシェフとして独立

​◉2024年 現在に至る

◉2024年 7月 スペイン本国スペイン政府より、"スペイン政府公認スペイン料理レストラン"として認定される。

野菜スタンド

Perfil de la empresa

◉2009年〜2012年にかけて長野県カルチャーセンター・長野都市ガス等にて、主婦の方々向けにスペイン料理教室・佐藤シェフの砂糖を使わないスイーツ教室等を開催。通算200名以上の生徒様に指導、現在も定期開催。

​◉2011年 Youtubeにて料理教室の様子やスペイン料理レシピの公開開始

◉2012年4月 長野県軽井沢にてスペイン料理専門店エステーリャOPEN

◉2012年9月 軽井沢別荘専門ケータリング出張サービスを開始。個人別荘専門出張料理教室開始。

◉2013年4月 全国紙「旅サライ」にて「わざわざ行きたい地方のレストラン」掲載

◉2013年9月からabn長野放送テレビにて「炎de料理ショー」9回出演し家庭でできるスペイン料理を紹介

◉2013年10月 店舗第一期改装工事

◉2014年11月 UFIJ Co.,Ltdに改組

◉2014年11月から飲食店コンサルタント事業開始。埼玉・福岡・大分・東京・長野等

◉2015年2月から化学調味料・保存料・着色料を使わないスペイン料理専門の通販事業を開始

◉2015年4月 全国紙「東京カレンダー」誘いたい店に掲載

◉2015年4月からBIGパーティーパエリアの全国出張サービスを開始(同年5月21日に弊社の取組みがヤフーニュースにて紹介)

◉2015年12月 大阪府泉佐野市商工会議所から依頼があり「個人店舗オーナーのための客数と利益を伸ばす方法」と題し、スライドを使用して、3時間あまり個人店舗経営者に向けてマーケティング集中講義

◉2016年10月からスペイン料理通販のBtoB取引を開始(年間およそ6,000食を納品、日本全国に配送)

◉2021年 第8期(直近)決算にて最高売上最高利益を達成​

◉2022年 2月 店舗第二期改装工事

現在に至る

ウニヴェルソ フシオン インフィニート ジャパン株式会社

代表取締役 佐藤雅己

事業内容:スペイン料理専門レストランの経営、通販ショップ運営、企業商品開発、スペイン料理伝道士、個人飲食店集客コンサルタント、セールスコピーライター、チラシ集客コンサルタント

アルハンブラ
ダウンタウン
野菜スタンド

Mis pensamientos

「スペイン料理を通して関わる人を幸せにしたい」

この手紙は「私がなぜ、スペイン料理を生業とするのか?」について、お話しする内容です。極々普通の人間の普通の話ですが、お時間に余裕がある方やとりあえず読んでみるかと思われた方は、2、3分で読めますので、読み飛ばすことのないように最後まで読んでみてくださいね。ありがとうございます。

1991年。私は21才の頃から自分の将来についてとても思い悩んでいました。ホテルで製パンと洋菓子を4年間学び、その後、イタリアンの店に移り調理に携わっていました。人並み以上に真剣に学び、日々様々なことを吸収し新しいことにも挑戦していました。それはそれで楽しい仕事ではありました。そして、いつかはドイツかフランスに行ってみたいなとはなんとなく考え、薄っすらと思いを巡らせる程度でした。

でも、自分の心というか感覚がこれらに携わっていても「何かしっくりこない」状態が常で、100%の気持ちを込めて仕事をすることはできませんでした。​正直、自分の心に嘘をついて携わっていました。だから、当然苦しくなっていきます。

自分が男として一生をかけてやりたい仕事はなんなんだろう?俺は何をするためにこの世に生まれてきたんだろう?と常に自問自答を繰り返す日々でした。

あなたはこんな事を聞くと、「別にそんなこと考えながら仕事しなくてもいいんじゃないの?」「適当に程よく働いていれば良いんじゃないの?」と思ったかもしれません。でも、考えてもみてください。仕事に携わる時間というのは1日で一番長いですよね?しかもほぼ毎日のことです。私は、あなたが思う以上に中途半端な生き方が嫌で悩み苦しんでいたのです。

実はこの頃、人生の方向性を大きく変える考えに至った一番目のキーポイントとなる出会いがあったのですが、その間の19歳からの2年ほどの期間の話しはここでは省略します。(とても重要な話しなのですが話せる機会がある方だけに直接話します。)​これがなければまずスペインには行っていないでしょう。

さて、話を少し戻してイタリア料理店で働き始めて1年が経ち転機は訪れました。いつものように仕事で疲れ果てて帰宅し、電気もつけずに静まり返った暗い部屋で寝落ちしてしまいました。ふと目が覚め畳を這うようにして、テレビのスイッチを入れ夢を見るような感覚でただ画面をじっとぼーっと見ていました。それはどこかの国で料理人が沢山いる調理場、私が見たこともないような料理を作っているシーンが流れていました。

「???うん?あれ?なんか不思議な感覚だ」「???!!」

それを見た瞬間、私はまるで雷にでも打たれたかのように全身に衝撃が走り立ち上がりました。「おっ、俺はこれがやりたい!」「俺はこの仕事を一生やる!」と決意した瞬間でした。テレビで見たそれが、たまたまスペイン料理だったのです。なんでそう感じたのかは自分でも説明が出来ませんし、もう訳がわかりません。でも、自分はいても立ってもいられない興奮状態になったのです。そして、スペインに行くと覚悟を決めた瞬間。次に起こす私の行動はとても速かったのです。

お金もない。コネもない。言葉もできない状況でしたが、「2年以内に俺は必ずスペインに働きに行く!」と決意。次の日に車を売却し、スペイン語の辞書・NHKテレビのスペイン語会話・ガイドブック・スーツケースやその他諸々を購入していつでも出発できるように準備をしました。

当時は携帯電話もメールもパソコンも持っていなかったので、コネを探すために分厚い電話帳を片手に、日本中のスペインという名の付く所に数え切れないほどの手紙を数百通余り送り(もちろん手書きです)毎日何時間もスペイン語を独学で学び、体力作りをしながらひたすら行動しチャンスを待ちました。

「そんな夢みたいな話、叶うわけないでしょ?」当然のように自分の親や友人、職場の人や上司。先輩や自分の周りの人はそんな感じであざ笑うような人たちばかりでした。

何を言われても構わないけど、「お前らにはできないけど俺にはできるよ。」と、心で思っていました。「俺さあ、もうスペインで働いているんだけどね」まだ日本にいるのに自分の脳はしっかりとそれを感じている感覚なんです。それから何度となく私の頭の中はいつでも自分がスペインのレストランで働いているイメージが物凄くリアルに見えていました。仕事をしていてもふと錯覚に陥るくらいのリアルさでした。

 

ですが、一向に音沙汰は無く行動してからもうすぐ一年が経つ最後の日に、ついに一本の電話があったのです。(この一年間、実は不思議と迷い、悩み、諦め、恐怖感これらの感情が微塵もありませんでした。)

 

留守電には「○○と申します。あなたからの手紙を読みました。...。」とメッセージが残されていました。

私は、すぐさま折り返しの電話をしお礼の言葉を述べ、チャンスは今だと感じたので半ば強引にS様と「次の日に会う約束」をし、その方がいる大阪まで会いに行きました。

 

ランチ時間も終わる頃に到着し、レストランに案内され着席をし、S様に再度深くお礼を述べ、手紙に書いてある内容を更に深く話しました。S様はスペインのマドリッドで私が働くことになるレストランで14年間働いており、大阪に支店ができるため立ち上げシェフとして日本に帰国していました。ここに来て願ってもないチャンスを掴める一番可能性が高い方でした。

私は、あった瞬間にスペインに行けるタイミングは今しかないと感じていたので、周りの視線も憚らずに私は思わずその場で土下座をして伝えました。

「○○さん、お願いです。私をスペインにあるそのレストランで働かせて下さい!」「そして、今すぐこの場でスペインに電話をしてチケットの手配をして下さい!」「どうか、お願いします。これが最後のチャンスなんです!」

「今この場で、スペインに電話をして下さい!決定してくれるまで私は、この場から帰りません!」と、聞いたこともないような強引なやり方で無理矢理押し通したのです。

思い返せば、あの時は考える間も無く自分の中から溢れてきた止められない言葉だったのでどうしようもありません。周りには食事中のお客さんが大勢いたので、みんな相当驚いていたと思います。

「わ、わかった、わかったから、今、電話するから、椅子に座りなさい。」

それから30分ほど本店の社長とスペイン語で話しをされていましたが、

いったい何を話しているのかわからないのでやきもきしていたのです。

 

○○さんは笑顔で、こう言いました。

「君は凄いな!社長からOKが出たぞ!奇跡だな、頑張りなさい。」

スペインの社長は「面白いやつじゃないか!すぐにこっちによこせ!チケットはもう手配した。」と、言っていたそうです。

 

私は、飛び跳ねて喜びました。

再度深くお礼と感謝を述べ、愛知に帰りました。

でも、なぜだかわかりませんが覚悟を決めて一切の迷いが消え去った時、私は本当に、こうなって当たり前だと思っていました。

そして、チャンスを手に入れた私は当時の仕事を辞め、愛知の借家を出て一旦実家の長野に引越しをし、あらゆる手続きを済ませ、大阪に行ったその日から何とわずか1週間後には、スペインで働いていました。そして、願ってもない最高のレストランで充実した3年間を過ごすのです。

 

50人近くいる見習い料理人(全員給料無し)の中でも、最下位の一番下から、経験値ほぼゼロからのスタート。

 

夢が叶った私は「調理場にいるだけで天にも昇るような気分」だったのでみんなが辛いと思うような仕事も、楽しくて仕方がない。とにかく楽しくて仕方がない。働いているというより遊びに夢中な子供のようでした。楽しすぎるので、気がつけば1日 22時間、休み無し休憩無しで私はやっているわけです。そのレストランは24時間、どこかしらのセクションが常に稼働しているのでお願いして働かせてもらっていました。

「日本から頭の狂った奴がきた」

そんな噂はすぐに広まりました。

見習いは、賄いはありますがみんな給料がもらえない(チップはもらえます)ので、相当な覚悟が無いと長続きしません。先が見えにくいため、覚醒剤や麻薬に手を出して脱落していく人間も沢山見て来ました。

私は階段を一気に駆け上るように、何もかも好き嫌いなく飲み込むように仕事を吸収して行きました。

1994年の10月にスペインに行き、年明けの2月、数百人単位のケータリングが何件も重なり、人手が足りなくなりました。私は、マエストロに呼ばれ、料理もスペイン語もまだまだだった私に、

「マーサミさん!600人のケータリングがあるんだけど、お前一人で行けるか?」というではありませんか。私は「もちろん大丈夫です。私にやらせて下さい!」と間髪を入れずに返答しました。

それを聞いていたみんなは前代未聞の、シェフの無茶振りに同僚はみんな目を丸くして「来たばかりの日本人、マサミが一人で?600人を」「本当に?」「シェフ大丈夫ですか?」となり、

シェフ曰く、「大丈夫、マサミはできるって言っているだろ!?」とこうです。

最終的には、私が司令塔になり、助手にブルガリア人のボブとカマレーロ(ウエイター20人強)を引き連れ、私の指揮のもと料理を始めとする全ての段取りを何とかこなし、成功させて無事にレストランに戻って来ました。

今思えば、私にとってスペインで最初で最大の危機であり最大のチャンスでした。シェフは一か八か私を試したんですね。その日から私を見る周りの目が一変したのです。オーナーに呼ばれ、「マサミにだけ毎月給料を出すから、みんなには黙っていなさい」と言われ、その月から充分過ぎる給料を頂き、スペイン語の個人教師もつけていただき、無料でフランス料理の学校にも行かせてもらえるようになり、更には、レストランの最上階にあるマンションの大きな部屋を無料で一人で住まわせてもらえるまでになりました。

半年も経たずに、シェフの右腕、セカンドシェフにまで駆け上りました。もちろん気持ちが浮かれることもなく、更に切磋琢磨しスペイン人にスペイン料理を教えられるまでの立場になりました。でも、そんな順調に進んでいた道も3年目に差し掛かる頃、誰も予想だにしない試練が私を待ち受けていたのでした。

「私はある事件で、手錠をかけられて牢屋の中へ入りました。」(※ここでは伏せます)

スペイン銀行頭取のコネまでいただいて、労働許可証の手続きをしている最中でした。でも、自分が望んでも絶対にスペインに滞在することはできない状況に陥ってしまったのです。

志し半ば、いよいよこれからが本当の意味でのスタートだという時期に私は夢と心が完全に真っ二つに折れてしまいました。まさかこんなことで帰国するとは夢にも思いませんでした。シェフであるマエストロや仲間に別れを告げ、また数年後戻ってくることを誓い、レストランを後にしました。

 

帰りの飛行機の中で、人生であの時ほど泣いたことはないというほど、私は大泣きしながら渋々日本へ帰国しました。

私は、人生で唯一無二の恩師となるマエストロに出会い嬉しくて、体が震え、涙が止まらない程の経験を沢山しました。スペインでの数々の出会い、授かった皆の想いを胸に27歳の時に帰国。

帰国する際、マエストロが、こんな言葉を私に伝えてくれました。「私は君のために様々な環境を用意し、教えて来たけれどその時に君が感じた想いや学んだことは、私に返すのではなく、君がこれから出会う人たちに返していくんだぞ。そして、日本でちゃんとしたスペイン料理を広めて有名になってほしい。」と仰っていたのです。

その時、私はボロボロ泣きながらただただ頷くことしかできませんでしたが、心の中では、「感謝の気持ちを常に忘れずに、人と出会い、縁があった方と一緒にスペイン料理を広めて行こう」と決意したのです。

スペイン料理が、イタリア料理みたいに日本の各家庭の食卓まで浸透するように広めることが私の恩師や出会った方々への恩返しであり、使命です。その為に私は生まれてきたのです。そう、言い切れるのが「スペイン料理」に携わる唯一の理由であり想いです。

そして、私のスペイン料理を通して自分と関わる人を幸せにしたいそんな気持ちで生きています。そのきっかけとなるのがこのスペイン料理店エステーリャです。

お疲れ様です。長くて読みづらい文章に最後までお付き合い頂きありがとうございます。あなたにこうして読んで頂けたことに心より感謝いたします。自分の夢に挑戦する人は一握りもいませんよね?でも、そもそも「夢」って何でしょうか?私なりの答えは、自分以外の全ての人に猛反対されたり馬鹿にされたり誹謗中傷されたとしても、必ず成し遂げたい。必ず辿り着きたい。と強く願う先にある自分にしか見えない世界です。「勇氣」あるのみ。今生の人生はたった一度きり。

 

追伸:

実はもうひとつ不思議な話しがあります。スペインに行くきっかけとなった「あの時、テレビに出ていたシェフ」なんと、自分が働くレストランであり生涯尊敬するマエストロだったのです。それは、シェフと話していた時にわかったことでシェフもわたしも同僚も凄く驚いていたのはいうまでもありません。

​ソウルメイトとかってあるのかな?(笑)

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